新田の歴史散策

◆本校の校歌の歌詞にも名所旧跡が歌い込まれています

生 品 神 社 元弘三年(1333年)五月八日、新田義貞が挙兵した地と伝えられている生品神社。弟の脇屋義助をはじめ、集結した新田一族はおよそ百五十騎。正面にある大鳥居の左手には、挙兵の際に陣をとったとされる床几塚、神社境内の手前には旗挙げ塚、社殿前には軍旗を揚げたといわれる朽ちおれた椚(くぬぎ)のご神木が保存されています。毎年五月八日には氏子たちにより鏑矢祭が行われ、勇壮な一族の姿が再現されます。(太田市観光協会HPより)

鏑   矢  祭 新田義貞が倒幕挙兵の際に鎌倉攻めの吉凶を占うために、鎌倉の方角に向けて矢を放ったとの伝承を受け継いでいるものです。少年たちの凛とした姿に、新田義貞とその一族の信念をかいま見ることができます。

反 町 館 跡 現在でも堀に水をたたえ、かつての館の面影を残す反町館跡は、新田荘における中世の代表的な平城。義貞が成人後、居住したとの説があり、また市野井氏あるいは大舘氏の館跡ともいわれています。現在では、照明寺の境内となり、反町薬師として毎年1月4日には大勢の人手で賑わいます。本堂裏には、義貞の逸話を伝える「鳴かずの池」と室町時代の造園とされる日本庭園があります。

二 ツ 山 古 墳
二ツ山古墳1号墳・2号墳は、生品小学校より北西3kmほどの、八王子丘陵南の平坦地に築かれています。現在、古墳の周りは見渡す限りの畑ですが、そのひっそりとしたたたずまいに、歴史のロマンを感じます。

市  野  倉 本校の北部に位置する市野倉地区。一見すると、どこにでもある広々とした畑や牧草地、酪農・養鶏・養豚を営む農家が点在し、所々に大きな工場が建ち並んでいます。しかし、ここを地図で見てみると、縦横にきっちり区画された地区であるにもかかわらず、不思議なことにその方向が他の地区とかなり違っています。それにはこのような訳があったのです。

須 永 地 蔵 須永好(すながこう)氏【1894-1946】は、地元の人々の農業振興のために一生を捧げました。農民運動家であるとともに衆議院議員にも当選し、日本農民組合の初代会長に就任しましたが、その後急逝されました。苦難の開拓を共有してきた市野倉の人たちは、須永好の功績をたたえて、同地区に須永地蔵尊を建立しました。このお地蔵さんは、手にはなんと鍬(クワ)を持って鎮座されています。




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